• リーグ経営

2024.05.07

管理するのではなく、補完する関係に【前編】

村井 満

公益財団法人日本バドミントン協会 会長

今回からは「リーグ経営」をテーマに、スポーツの統括団体が果たすべく役割などについて話を伺っていく。

第1回となる今回はJリーグで過去最長の4期8年、チェアマンを務めた村井満氏にご登場いただいた。

いくつもの大きな激動を乗り越える中で、どのようなことを考えていたのだろうか。

ビジネスの世界からスポーツ業界に入られた先駆者として、どのような経緯だったのかを教えてください。

1983年に日本リクルートセンター(現リクルートホールディングス)という求人広告などを手掛ける会社に就職しました。当時は若くて元気のある会社で、広告だけの雑誌を作るという先駆的なビジネスモデルでした。リクルートでは幾多の困難を経験し、1988年にリクルート事件があり、1995年にインターネットが流行語大賞になる頃には、紙の広告雑誌がなくなるだろうと考えられ始めました。

また、リクルートにはメインバンクがないにもかかわらず、1兆4,000億もの有利子負債を抱えていました。これらの激震に見舞われてから、私は人事部長や人事担当役員を務めていました。不況期には年間3人しか学生を採用できないような時期もありました。企業を再生していく中で、インターネットという新モデルに向けた意識改革を進め、新しい事業構造に再編していく勝負のときでしたね。

会社が借金を返済した後、私は海外事業に籍を移しました。2008年のリーマンショックに端を発し、2011年の東日本大震災で国内市場が非常に冷えた折りに、日本の企業には、海外で良い製品を安く作って国内で販売するモデルから、海外で作った製品を第三国に売るモデルへの転換が求められていました。しかし、海外市場に合わせた商品開発やマーケティングができる人材は多くなかったため、我々はアジア中心に海外法人を設立し、そういった人材をアサインする事業を展開していきました。

Jリーグから声が掛かったのは、私としては何とかリクルートでトンネルを抜けたと感じていたときでした。実は当時のJリーグも大変厳しい状況で、私がチェアマンに就任するタイミングで大手広告代理店とのマーケティング契約が終了しました。Jリーグはスポンサー獲得をそうした外部企業に頼っている状態でしたから、リーグの経営状況は極めて厳しい状況になりました。公式戦の安定開催さえも懸念されるような財務的には危機的状況でした。

当時Jリーグでは2ステージ制の導入が検討されていました。リーグ戦はカップ戦と違い、いつ、どこで優勝が決まるかが事前に分かりません。つまり、優勝の瞬間を地上波で中継することやシティデコレーションなども含めたプロモーション活動がやりにくいわけです。リーグ戦にはリーグ戦の、カップ戦にはカップ戦の文化があるのですが、Jリーグはリーグ戦の中に、プロ野球における日本シリーズのようなプレーオフを設けて演出することで、新たな財源獲得を模索していました。これには多くの議論がありましたが、財務的に背に腹は代えられない状況で、Jリーグに対する関心度アップのためにも大きなイノベーションを検討していたのです。Jリーグとしては勝負に出るタイミングでした。

私は2ステージ制の導入を検討していた当時はJリーグの社外理事を務めていましたが、あのタイミングでリーグの責任者を担うことは非常に困難だと思っていました。それほど困難な経営環境でした。そんなJリーグに、直近3年ほどは日本におらず、クラブでもリーグでも働いたことがなく、現場経験もない。誰一人、私のことを知らない状況でチェアマンに就任するわけですからね。3人の先輩チェアマンは2期4年でしたので、私も4年できれば御の字だろうと思っていたのですが、多くの皆さんのご協力をいただき、結果的に4期を務め、DAZNとの契約やコロナ対応など激動の 8年を過ごすことになりました。

バドミントン協会のお話もお聞かせください。

NPB・Jリーグ連絡会議を通じてコロナ対策を行ったように、日本の2大プロスポーツは体制が整っていますが、他の多くのスポーツ団体は財政的に課題を抱え、さらなる人材の充実が求められています。そして、バドミントン協会は職員の公金横領の挙句、公表するまでに長い時間をかけ、社会からガバナンスの欠如を厳しく批判されていました。

そんなときに、ある方から「力を貸してほしい」と声を掛けていただきました。バドミントンには全く縁がなく、私に何ができるかを逡巡しましたが、スポーツに恩返しができるならばと、2023年6月に会長に就任しました。それ以降、現在も修羅場の連続ですね。

Jリーグで最初に着手されたのは何だったのでしょうか。

最初は約50人の職員全員との1on1でした。私はサッカー界での経験がなかったので、自分の目となり耳となり触覚となる分身を、どれだけ持てるかが勝負だと考えたからです。しかし、相手も私がどんな人間かを知りませんから、本音を引き出すまでに時間を要しました。これはバドミントン協会でも同じ状況です。

継続的に取り組まれたことは何でしょうか。

徹底して現場に足を運びましたね。私はスタジアムで観戦した試合のメンバー表を必ず保管していますが、8年間で860枚以上になりました。Jリーグのシーズンは2月末から12月初旬までなので、約10ヶ月で 100試合以上の計算になります。

特に就任当初は試合会場だけでなく、クラブのオフィス、練習場、サポーターが集まる飲み屋さんに行ったり、市長や県知事、商工会議所の会頭に会いに行ったりしました。試合前後の数日にわたり全50クラブを回ったので、最初のころはJリーグのオフィスにほとんど足を運びませんでしたね。一つのクラブに10年、20年と関わっている方は数多くいらっしゃいますが、全クラブを隅から隅まで見た人間は私しかいないのではないでしょうか。

やはり現場はイノベーションの宝庫です。現場に通い続け、どれだけ改革の目が見つかったことか。これは私の考え方を伝える活動でもありましたので、会議で伝えきれないことをクラブの方々に膝詰めで話しました。私は素人だった分だけ吸収する意欲が強かったですし、相手も私を知らなかったので、私から自分を開いていく機会を意識的に作りました。

多忙を極める中、それでも現場に足を運ぶことが重要だと感じられたのですね。

そうですね。Jクラブは北海道から沖縄まで全国に分散していますので、九州ブロックの方々を九州に集めて会議をするなど、私が出ていくのは必然だったように思います。また、サッカーでは地域性がクラブの文化に与える影響がすごく強い。都道府県以上に旧幕藩体制の地域性、例えば松本と長野、八戸と津軽などのように地域間のライバル意識があります。これらは現地に行って、地元の酒や料理をいただきながら話をしないと分かりません。Jリーグが掲げる地域密着は、歴史や文化を背負った価値観の激突ですから、その文脈を理解することがすごく大事だと思っていました。

地道な活動を通じてJリーグやサッカーのことを理解されたと思いますが、ビジネスにおけるスポーツの特異性は何か感じられましたか。

事業性だけでなく、相対的な勝ち負けがあるということです。当然、他の産業でも同業他社と凌ぎを削るのですが、それぞれが増収増益を達成したのに、上場企業が非上場になってしまうことはありません。しかし、Jリーグには相対的な競争があり、各クラブが観戦者数を増やしたり、競技レベルを上げたりしても順位によって降格するチームが存在します。

クラブを統括する立場のチェアマンとしては、リーグ全体の財政的、社会的な発展を考えたいのですが、各クラブは自分が生き残るか否か、相対的な競争が重要ですから、中長期的なことばかり言っていられません。彼らにとっては目の前の試合で勝つか負けるかという戦いがある中で、中長期的な視点と短期的な視点をどう統合するかに最も腐心しましたし、企業経営との大きな違いだと思います。

リーグ全体の発展という観点で、リーグはどのような役割なのでしょうか。

当時は不祥事を起こしたクラブを制裁したり、フォーマットに沿って試合が滞りなく行われているかを管理したりすることが、Jリーグの役割の中心だと考えられていました。ですが、私が全クラブを回って感じたのは、リーグはクラブを管理するのではなく、クラブを補完する役割も果たすべきだということなのです。

なぜなら、現場は毎週の試合対応に全力を尽くします。例えば広報担当者は、地元メディアにどれだけ取り上げてもらうかを週次で対応した上で、本業ではないウェブサイトの設計等に追われている状況でした。当時はPC版とスマートフォン版の最適化ができていないクラブも多かったですよね。

オフィスのデスクにファン感謝デーの応募ハガキが積み上がり、スタッフの皆さんが1枚1枚、エクセルに手入力するような光景も目にしました。作業効率が非常に悪く、情報管理の観点でも良い状態ではありません。チケットや物販のサイトも構築されていませんでしたし、ありとあらゆるものが未整備だと感じました。

それならば、リーグが集中投資をしてプラットフォームを作り、クラブに還元しようと考えました。リーグとしてエンジニアを採用し、様々なデータや動画を管理してクラブが活用できるようにしたり、チケットセールスやECサイトを構築したりしました。一つのクラブではできない放送権の一括販売にも取り組みました。

他にも印象的な施策があれば教えてください。

忘れもしないのは、「フライデーナイトJリーグ」です。Jリーグは週末か水曜日の開催が通例でしたので、金曜日開催には全クラブが反対でした。なぜなら、平日開催の集客数が週末の半分程度だと経験則的に分かっていたからです。しかし顧客のセグメントを分析してみると、仕事終わりに職場の仲間で観戦に行ったり、金曜日の方が都合のつく方がいたりと新たな顧客セグメントも見えてきて、実際にフライデーナイトJリーグは大きくブレイクしました。

Jリーグ全体としても、木曜日から試合の前日告知が始まり、金曜日から日曜日まで試合が開催され、月曜日に結果がメディアで報道される。週7日間のうち5日間、Jリーグとの接点が生まれるわけです。デジタルに投資したことで、データを元にクラブの方々と新たなブランディングの議論できるようになったことが大きな収穫でした。

 

※後編(5/21掲載)は、こちら へ!

5月下旬に公開予定の後編では、DAZNとの契約の狙いなど、具体的な施策の裏側に迫っていく――。

プロフィール

1959年生まれ、埼玉県出身。早稲田大学卒業後の1983年に日本リクルートセンター(現リクルートホールディングス)入社。2000年に同社執行役員に就任し、2004年にリクルートエージェント代表取締役社長、2011年にリクルート・グローバル・ファミリー香港法人社長、2013年に同社会長を歴任。日本プロサッカーリーグ理事(非常勤)に2008年に選任され、2014年1月にサッカー界以外から初の起用となる第5代Jリーグチェアマンに就任。4期8年の任期を終え、現在は日本バドミントン協会会長。JOC理事に加え、株式会社WOWOW、ぴあ株式会社、株式会社アシックスで社外取締役を務める。

Recommend

keyword

Back to Index