まずは、貴社やスポーツとのご縁を教えてください。
大学卒業後に入社した三菱商事で38年間、人事、総務、広報、法務などの仕事をした他、サステナビリティ、環境、CSRの領域も経験しました。2017年に常務執行役員 兼 関西支社長として大阪に赴任した後、様々な財界活動を通じて当時アシックスの社長だった尾山基さん(現在はシニアアドバイザー)と知り合いました。
アシックスとして次の経営者を検討する中で、尾山さんに「社長をやらないか」と声を掛けていただきました。社外の人間がいきなり社長に就任するのも珍しいケースだと思いましたが、社長という役割にやりがいと面白みを感じましたし、ランニングを通じてアシックスには良い印象を持っていたので引き受ける決断をしました。
実は運動は大の苦手で、子どものころはコンプレックスを持っていました。小学生のころは、スポーツができた方が女の子にモテるないじゃないですか(笑)。しかし身体を動かすことは好きだったので、50歳でランニングを始め、東京マラソンに参加しました。初めて見たマラソンではタイムに関わらず楽しそうに走っている方が多く、これなら自分にもできるのではと感じて以来、ランニングは今でも続いています。
続けていれば徐々に記録は伸びていくもので、60歳を過ぎて自己記録を更新し、フルマラソンでサブ4(4時間切り)を達成することができました。アシックスで働くようになってからは、「見る」「する」「支える」と、スポーツには様々な関わり方があることを実感しています。
貴社は多くのスポーツ団体や組織と取引されていますが、三菱商事時代に関わられていた企業と経営面での違いは感じますか。
特に大きな違いは感じませんが、私にとってスポーツ業界は初めてでしたから、スポーツ団体、スポーツチームのスタッフや選手の方々、広告代理店やイベント関係会社のようなスポーツ関連企業など、どのような方々がスポーツに関わっていて、どのようなことをされているのかを知ることから始めました。以前からの友人である岡田武史さん(株式会社今治.夢スポーツ 代表取締役会長)や、同じく大学の同級生である瀬古利彦さん(元日本陸上競技連盟 副会長)たちには、今でも色々な話を聞いています。
貴社ではシューズというビジネスの柱を通じて、スポーツをする人々を広く足元からサポートされています。トップアスリートだけでなく、一般の方々もスポーツする環境を提供する狙いは何でしょうか。
トップアスリートを支援することで技術的なイノベーションが進みますし、 もちろんマーケティング効果も期待しています。しかし、弊社のビジョン「VISION2030」では「誰もが一生涯、運動・スポーツを通じて心も身体も満たされるライフスタイルを創造する」ことを目指す姿として掲げています。これが1949年に鬼塚喜八郎がアシックスを設立した原点ですし、スポーツを通じて青少年の健全な育成に貢献したいという思いは現在でも変わりません。
スポーツには、身体を動かすことで健康になり気分が晴れやかになるなど多くのメリットがあります。一般の方々がスポーツに対して身構えるのではなく、普段の生活にスポーツが自然と入り込んでいき、ちょっと身体を動かす、ちょっと歩いてみるということが広く浸透していくと良いと考えています。
シューズやアパレル等の開発・販売はアシックスのビジネスの中心ではありますが、それに加えて、スポーツをする「場」の提供が必要だという考えの下、コミュニティの創出にも取り組んでいます。仲間と一緒にスポーツをすることで、得られる喜びも楽しみも大きくなりますし、持続性が高まります。また、互いに競い合うこともスポーツの醍醐味の一つでしょう。
「場」の提供という観点では、デジタルを活用した取り組みもされていますね。
コロナ禍を契機に世界中でデジタル化が加速しました。スポーツをする仲間が物理的に集まる必然性がなくなり、オンライン上でランニング大会を実施する試みも行われました。たとえ一人で走っていても黙々と孤独に走るのではなく、誰かと一緒に走っていると感じられることは非常に価値がありますから、デジタル技術を活用したスポーツのコミュニティづくりにはこれからも貢献したいと考えています。
具体的には、「OneASICS」という無料の会員システムを運用しており、そのサービスの一環としてデジタル上でコミュニティを創出し、お客さまとアシックスがコミュニケーションできるようになっています。我々が発信するだけでなく、お客さまからの問い掛けも可能です。リアルの場だけでなく、デジタル上でも実現できたことに価値があるのではないでしょうか。
また、アシックスの関連会社「アールビーズ」が提供する「moshicom」というサービスの需要が大きく伸びています。一言で言えば、各地域の方々がオンライン上でランニングイベント等を告知して参加者を募る仕組みです。デジタルを活用してコミュニティを創出し、リアルで集まることが可能になっており、地域をまたいで他のコミュニティとつながることができる点も社会的に見て大きな価値があると思います。
コロナ禍を経てあらためて切実に感じたことは、健康そのものや健康でいられることの大切さですよね。適度な運動によって基礎体力や抵抗力を高めておくことが、様々な病気の予防策につながるでしょう。
アプリで血圧を計測するなど、コロナ禍を機にデータを見るようになった人が増えた印象があります。しかし、それを継続するためにはコミュニティや仲間の存在が大切だということですね。
そのとおりだと思います。私自身、天満屋さんの「うちトレRUN」というサービスを利用しています。パーソナルトレーナーがオンラインカウンセリングを行い、市民マラソンランナーの記録更新をサポートするプログラムです。毎日のトレーニングメニューが届き、実施の有無などを返信するとフィードバックがあり、時にはオンラインで指導を受けるのでトレーニングをサボれなくなります。
このサービスは市民ランナーにメリットがあるだけでなく、コーチにとっても指導機会や収入の増加というメリットがありますから、デジタルを活用してスポーツの価値を高めた事例と言えますし、スポーツとデジタルは非常に相性が良いのではないかと感じています。
スポーツが持つ一番の価値は何だと思われますか。
シンプルなだけに難しい質問ですね。個人的な体験を元にお話ししますと、スポーツや運動をする、走るという行為をするときは、人間が本来持っているものと言いますか、人間そのものに戻るような感覚があります。獲物を追いかけるときかもしれませんし、何かに追いかけられるときかもしれませんが、人類は大昔から走るという行為をずっと繰り返してきたと思うのです。
競争という概念や欲求も人間が本来持っているものであり、スポーツにはルールの中で人間の闘争心を消化させる役割があるのではないでしょうか。それ以外にも、スポーツをすることで楽しさを感じたり、心が晴れやかになったり、仲間ができたりと、我々の社会において様々な役割を果たしていると思います。
学生時代の1979年、ボランティアでオセアニアのミクロネシア地域に行って野球やバレーボールを教えてきました。当時、現地の人々には組織的な遊びがあまりなかったのですが、彼らがスポーツを知ることで複数の仲間と遊べるようになったという実体験があります。スポーツの価値を肌で感じた瞬間でした。
※10/22(火)公開の前編は、こちら !